2015年2月アーカイブ

祖父が63歳という年齢で急死し、本人も自分がその年齢で死ぬことは全く予想もしていません

でしたし、当然周囲の誰も想像していませんでした。

当時、父は大学卒業後、どこかの会社に就職する予定だったそうですが、祖父から家業を

手伝うように言われ、長崎に帰ってきて飲食業の現場を取り仕切っていたそうです。

会社全体の経営の内部には全く触れていなかったので、祖父が急死し全く分からない状態から

の相続となりました。

当時、祖父は個人資産を多く所有していた上に、相続対策も全く行っていない状態でした。

そのため、多額の相続税がまともに発生してしまったのです。

相続税で多額の納付を行った後に、日本はバブル景気に入ります。

バブル時期に資産を再度増やそうといくつかの投資を行ったのですが、その後バブルははじけ、

更に資産は減少してしまいました。

そこで現在の福徳不動産の原型となっている祖父が創業した「福徳商事」という会社を

数年間かけて再構築していきます。

その時点で時代にそぐわない、金融業、飲食業は整理し、廃業しました。

そして祖父が残した不動産資産で昔の大家業をしていたのですが、「今後は不動産業も

整備化され、不動産管理業が定着するはずだ!」ということで平成12年に「福徳不動産」を

設立します。

また、平成10年に介護保険法が改正された時に、祖父が設立していた福祉事業の保育園に

「これからは高齢者福祉事業も必要とされる!」ということで、高齢者福祉事業も社会福祉法人

の中に立ち上げ、平成13年には株式会社でも高齢者福祉事業を運営する「株式会社サポート」

を設立します。

この再構築を行っている当初から、軌道に乗り出したら早々に父は社長職を後継者である

私に継承できるように会社を構築していました。その考えに至った大きな要因が祖父が急死した

事による自身の苦労が大いにあったと思います。

福徳不動産は不動産管理会社としては業界の中でも、後発組であったため、

急拡大することを、父の性格も伴って行っていました。

現在と比べると、ものすごく荒削りな新興企業でお金も無く、苦労をしていました。

そんな再構築からスタートアップ時期の会社設立から10年が経とうかとしている時期に、

私は福徳グループに入社しました。

入社するまでに時間を多く用してしまいましたが、その後の社長交代の大きな要因として

会社の歴史があることから書かせていただきました。

次回で入社初日をちゃんと迎えます(笑)

2008年8月にかくして私は福徳グループに入社することとなります。

役職は代表取締役副社長。

いきなりの代表取締役付きで、今までの平社員から180度の立場転換でした。

これも父の考えで、今の私も全く同感ですが「経営者の仕事は経営者にならないと分からない。

いくら現場で腕を磨いても、経営者の仕事は全く別物である。」という考えから入社していきなりの

代表取締役でした。私の席は社長室の社長席の隣。

その後はこれから口述しますが様々な社長としての試練がありました。

私は2010年に父と社長を交代します。当時の私は28歳。

おそらく当時は業界の中でも最年少の社長だったと思います。

なぜ、私が20代にして社長になったのかという理由の一つは私の祖父に関係があります。

祖父は現在の福徳グループの創業者です。祖父を振り返ることは福徳グループの歴史にも

関わり、ひいては私の社長就任にも影響したので、簡単な社史ということで祖父と会社の

生い立ちを振り返ってみたいと思います。

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創業者の福島義男は1914年の大正3年に生まれました。

幼いころは苦労の連続だったようで、父は行方不明となり、母はおそらく10歳の頃に

亡くなってしまったようでした。祖父が喪主となり位牌を手にしている写真が今でも残っています。

洋服店に丁稚奉公(でっちぼうこう)に出され、住み込みで幼いながらも働いて、

腕を磨いていったようです。その後、自身で洋服店を開店し順調に成功を収め、祖母とも

結婚し長男が生まれたところで太平洋戦争が勃発し、祖父は太平洋南方沖に機関銃部隊として

徴兵されました。当時の南方沖ですから酷い戦況だったと思いますが無事に生還してきます。

しかし、無事に生還したものの長崎には原爆が投下され、最大のショックは帰還してみると

長男は幼くして亡くなっていたそうです。当時、祖父は相当なショックを受けたそうです。

ここで福島家のエピソードとして、戦時中に亡くなった長男の命日が3月20日、

私の父の生まれた日が3月20日、私の娘が生まれた日も3月20日と何とも不思議な縁を感じます。

戦後の復興の中、祖母と夫婦二人でがむしゃらに働いたそうです。

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                                   祖母:スマ子
洋服店を再開し、その後、質屋をはじめ現在の福徳グループの前身が誕生します。

質屋から派生し、当時は銀行も個人融資はほとんどしておらず、祖父が成功したお金で

金融業、飲食業と広げ、戦後の高度経済成長の中、事業を拡大し財産も築いていきました。

自身が幼い頃にお金で苦労した経験から、成功した後は自宅に多くの苦学生や生活に

困っている縁者を自宅に住まわせていたそうです。多い時は10名ほどいたそうです。

お金には困らなくなった祖父は、その後地域貢献や社会奉仕に強く傾倒していったようでした。

非常に口下手な人物だったようですが、市議会議員、県議会議員と落選も経験しつつ、

晩年は議員活動に精を入れ、この頃に現在の社会福祉事業の前身となる、保育園を創立します

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今でも私の実家の地域の方から、祖父が尽力して長崎独特の斜面地に道路工事計画を入れ、

生活の利便性が格段に変わった事にお礼を言われることがあります。

そんな議員活動に精を出していた矢先の昭和52年の夏に脳溢血で倒れ、突然この世を去ります

享年63歳。私の父は25歳。私が生まれる5年前の夏でした。

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次回は祖父の突然の死による、父の苦難の時代と福徳不動産設立までを描きたいと思います。

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